レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」
構造主義って何でしょうか?
構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。(中略)
私たちは自分では判断や行動の「自主的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである
内田 樹 著「寝ながら学べる構造主義」
だそうです。ふむふむ~。
というわけで、構造主義のことが何となく分かったような気になった所で、特に何の予備知識も無く、レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」を読み物として読んでいきます。
学術書なので、何の予備知識もなしに読むとキツイ
さすがにこの本をエッセイと表現するのは適切ではなさそうです。
アマゾンの奥地に住む先住民の所へ足を運び、観察と分析を行います。
ただし、前半はかなりの部分がアマゾンに辿り着くまでの経緯について書かれています。
だが実際には、夕方と朝ほど違ったものはない。夜明けは一つの序奏であり、日没は昔のオペラでそうだったように、初めではなく終りに演奏される序曲なのである。太陽の表情は、あとに続く時間を予告する。もし午前の初めの数時間が雨もよいのようなら、太陽の表情は暗く、蒼ざめている。明るい太陽が輝き出るはずの時には、太陽の表情は薔薇色で、軽やかで、沸き立っている。
こういった詩的が多く見られますが、言い方を変えると回りくどい表現が多く読みにくいです。普通のエッセイ感覚で読むとキツイです。
全体を通して、著者が発見したこと、見たこと、起こったことが非常に詳細に、時には詩的に表現されています。
ボロロ族の村にたどり着くまでに、トラックで悪路を進むのですが、たった数メートルの障碍を乗り越えるために、トラックの前に丸太を移動させねばならず、疲れ切って地べたで寝てしまったとか、とにかく本筋であるアマゾンの村にたどり着くまでのエピソードがすごく長い。
一般的な旅行記、探検報告、写真集などの本は「読者にいかに強い印象を与えるか」「人気を博するか」を最重要視しているが、本書はそういった店先に並ぶ旅行記を忌み嫌います。
ボロロ族やナンビクワラ族の社会、祭礼、家族のことなどについて、正確に厳密に述べています。それこそがレヴィ=ストロースが目指したものであり、構造主義の原点となっています。
全体に軽く目を通し、しばらく経ってからまた戻る予定
おそらく、私が構造主義をよく理解していないことも、本書を読みにくいと感じる原因の一つであることは間違いありません。
構造主義を知らなくても、読むことは可能だと思います。
しかし本書の本当のすごさは到底理解し切れないでしょう。
今のまま無理をして読んでいても、あんまり内容が頭に入らなそうです。
引き続き読み進める予定ではありますが、じっくり読むのではなく軽く目を通す感じで一旦は済ませる予定です。
その後は構造主義の入門書(先述の内田先生の本など)や、他の文化人類学の本などの本を読んでみてからまた「悲しき熱帯」に戻ってこようと思います。
「悲しき熱帯」だけでなく、いずれは「野生の思考」にも挑戦したいと思っています。