ヒオカ 著「死にそうだけど生きてます」を読みました。
地方の貧困家庭に生まれ、お金がないことでずっと苦しみ続けた体験を綴ったエッセイです。
メディアに属する側の人は、有名大学を出ていたり留学経験があったりと、生まれながらにして社会的強者である場合が多いです。
弱い者の取材はしますが、本人が貧困の当事者というわけではありません。
貧困家庭で育ち、それでも奨学金制度を利用して大学を卒業し、コロナ禍で職を失い、いまだ貧困を抜け出せないでいる当時者本人によって書かれた本という意味で、本書は貴重です。
日本には、公的福祉を排除され、政治に放置された、ネットカフェやシェアハウスで生活する人、あるいは路宿生活を余儀なくされている人がいるということを、頭では理解しているつもりでした。
しかし、貧困当事者のリアルな体験として本書を読むと、壮絶な現実にショックを隠すことができません。
貧困への無知と無理解について
「スマホ解約しろ」
「家賃高すぎ」
「食費はもっと切り詰められる」
「文句あるならもっと働け」
「○○できる時点で貧困ではない」
「甘えてる」
ネットでは貧困の話題になると、必ずこういった生活困窮者に対する攻撃が山ほど書き込まれます。
どうしてこの人たちは貧困者を寄ってたかって嬉しそうに叩くんだろう?
それがずっと疑問でした。
貧困家庭で育った人に対する無知と想像力の欠如に対して、著者は警鐘を鳴らします。
差別をする人や、困難を抱えている他者に対して無理解な人がいる。
自分の特権(強者性)を自覚することができれば、他者に対する視点は大きく変わってくるはずだ。
「自分に備わった特権に無自覚である」ということは、「自分が当たり前に享受している権利を持たない人たちがいるということに無自覚である」ということだ。
そうした悪気のない無知、あるいは無自覚が、たとえば生活困窮者の状況に対する、怠慢や努力不足というジャッジに帰結してしまう。
無自覚の特権層と、貧困層とではあまりにも見える世界が違う。分断がある。
他者へ共感する心の深い部分が不感症になってしまっているから、無自覚のベースに支えられた安寧を得られる立場から、痛みある他者の領域を踏み荒らせるのだと著者は強く訴えます。
人は、完全に他社と同じ立場になることはできないし、気持ちを理解することだってできない。でも、だからこそ、他者の視点に立って、その立場を慮る営みが尊いのではないか。安易に「わかるよ」と言うよりも「わからないけれど理解したい」と言えるほうが、よほど思慮深いと私は思う。
社会に想定されない貧困がある
生まれによるマイナス要因を持った人たちは「不可視化されている」と著者は言います。
ここで「可視化されていない」ではなく「不可視化されている」という表現をあえて使っています。
「可視化されていない」は何らかの障壁があり、その機会を得ることができないというニュアンスがあります。
しかし「不可視化されている」は、そこに意図をはらんでおり、「無きものとされている」ことが示唆されています。
「非課税世帯は存在しないに等しい」
「”普通”に働いていたらそんなことにはならない」
あぁ、本当に”社会に想定されない貧困”ってあるんだ。
多くの人の視界には、貧困の沼から抜け出せない人たちが入ってさえこない。
「無いもの」にされている。
その事実を、嫌というほどに、思い知らされた。
「貧困税」という概念があり、低所得の人々、特に貧困地域に住む人々は、より多くの支払いが発生してしまう現象を指します。
例えばコンビニのおにぎりを買うよりも、米を一袋買って炊いた方がコスパが良いです。
しかし、5キロの米と炊飯器を買うお金がなかったら。
おにぎりを買って、とりあえずお腹を満たさざるを得ません。
初期投資するお金がなかったり、お金以外にも文化資本格差があったりといった理由で、貧困は負のループから抜け出せないという側面があります。