いじわる魔女の猫

ゲームのプレイ日記や攻略などを綴ります。

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人生は苦である、でも死んではいけない

岸見 一郎 著「人生は苦である、でも死んではいけない」を読みました。

生きることは苦です。

仕事や人間関係、老い、病、死など、人生には逃れることができない課題や困難が存在します。

しかし病気になったり老いること自体は、善でも悪でもありません。

どんな状態にあっても、人の価値は変わりません。人の価値は生きることにあるのだから、病気であるか健康であるかは関係ないのです。

この世の中が回っていくためには、たしかに働くことは必要です。しかし、働けるか働けないかは、本来的には人間の価値とは何の関係もないことです。

仕事は、できる人が、できる時にする。それだけのことです。

家族や親しい人が病気になった時はたしかに一日も早い回復を望むけれども、まず、とにかく生きていてくれさえすればありがたいと思う人は多いのではないでしょうか?

病者が生きていることがすでに喜びであり、生きているだけで病者は他者に貢献しているのです。

生きることは苦しいことだが、人はただ生きているだけで価値がある。だから死んではいけないというのが、このタイトルの意味です。

これまでの人生の選択が誤っていたことに気づいた時はどうすれば良いでしょうか?

これからどうするかを考えるしかありません。

今の時点で選べる選択肢を探すというのも一つの方法です。決断に遅すぎるということはありません。また決断は一度しかできないわけではありません。いつでもやり直すことができます。

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二匹の蛙がミルクが入った壺に落ちてしまう話があります。

一匹目のカエルはもうだめだとあきらめてしまい、なにもせず溺れて死んでしまいます。

もう一匹の蛙は、どうなるかはわからないけれど何とかしようと、足を蹴って懸命に泳ぎました。すると足の下がだんだん固まり、ミルクがバターになりました。その蛙はその上に乗って飛び出し生還することができました。

前者の蛙は悲観主義者でした。この蛙はすぐにあきらめて何もしませんでした。「何ともならない」と諦めてしまう悲観主義者は状況に対する勇気を欠いているとアドラーは言っています。

このエピソードには実はもう一匹の蛙が登場します。

この蛙がミルク壺の中に転落したという状況でとった行動は他の蛙と違って、きっと誰かが救いに来てくれるだろう、自分が何もしなくても何か奇跡のようなことが起こってこの苦境から脱出できるだろうと期待しました。何とかなると考えて何もしなかったのです。しかし、奇跡は起こらず溺れてしまいました。

この蛙は何とかなると思って何もしませんでした。その意味で、何ともならないと考えて何もしなかった、悲観主義者の蛙と同じです。

人間もまたミルク壺に落ちてしまった蛙のようなものです。その現実から目を背けるわけにはいきません。だがあきらめてしまうのでも、何か自分を超えた力が働いて何とかなるだろうと考えて何もしないのでもなく、できることをしていくしかありません。

援助と依存は違います。自力でできることは自分でするが、それでもできないことがあれば、他者に援助を求めてもいいのです。

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